1996年7月〜8月 ウスター歴史博物館で開催された「スマイリー・フェイスとハーベイ・ボール展」の展示用パネル

ステート生命保険のキャンペーン

1963年、ステート生命保険は問題に直面していた。ウスターに基盤を置くこの会社はその前年にオハイオのギャランティ保険を買収し、子会社のウスター火災保険と合併させたのだが、合併後再編成された従業員達の意識が低かった。そこでステート生命保険の副会長「ジョン・アダム・ジュニア」は「友愛キャンペーン」を提案し、キャンペーンの進行をウスター・ギャランティ保険の販売とマーケティング担当の「ジョイ・ヤング夫人」に任せた。

ヤングはフリーの商業美術家である「ハーベイ・ボール」氏の所へ向かい、バッジやカード、ポスターに使える小さなスマイルを作るよう頼んだ。ボールは描いてみて、何か足りないと考え2つの目を付け足してスマイリー・フェイスを作り上げた。全部で10分程しかかからなかった。

ウスター・ギャランティ保険は1964年にキャンペーンを繰り広げ、当初注文した100個のスマイル・バッジが従業員に配布された。すると外交員や顧客から大きな反響があった為、ヤングは1万個単位で再注文をした。ステート生命保険とその子会社は「スマイル保険会社」として売り出した。2代目の副会長を引退した「ウィリアム・ルビエ」によると、キャンペーン全体は「ともかく、成功した」。子会社全ての従業員がスマイル・バッジとそのメッセージを取り入れた。デザインは「スマイル・ガード」と呼ばれる虫歯予防計画にまで使われた。しかし、1978年から79年までにはキャンペーンは自然に消滅し、スマイリー・フェイスは去っていった。

ステート生命保険は現在「アルメリカ」として知られている。ウスター火災保険はもはやステート生命保険の子会社ではなく、「ウスター・バークシャー保険」という名前で宣伝物にスマイリー・フェイスを使い、バッジを配布している。スマイリー・フェイスは会社の壁を越えて生命を獲得した。ハーベイ・ボールのデザインは1970年初頭に大流行を引き起こして国全体が熱狂的な騒ぎになり、アメリカのその世代のシンボルとなった。

ハーベイ・ボール略歴

ハーベイ・ボールはウスターで生まれ育った。父親はリンカーン・スクエアで煙草屋を営み、その後はハモンドストリートにある「メルヴィル靴会社」の倉庫の見回りを勤めていた。ボールはサウスハイスクールに進んで芸術に興味を持ち、3年生の時に地元の看板画家に弟子入りして、強い印象を与える四角イメージの創作を教わった。彼は1940年にウスター美術学校の奨学金を得て、造形美術の訓練を受けた。彼は学校で学んだ堅苦しい造形美術の技術よりも、看板店で働いた経験の方がその後の商業美術家という道につながったと思っている。

第2次世界大戦で従軍した後、ボールはウスターに帰り地元の広告代理店に勤務した。1959年には独立し、「ハーベイ・ボール広告店」を開いた。フリーの芸術家としてステート生命保険とその子会社の為にいくつか仕事を仕上げ、その後1963年の12月にスマイリー・フェイスの仕事を受けた。彼はキャンペーン全体で240ドルを受け取った。その中にはバッジの創作代としての45ドルも含まれていた。彼はスマイリー・フェイスのデザインでそれ以上の利益を得る事など思いつきもしなかった。

ボール氏は現在もウスターでグラフィック・デザイナーとして働いている。彼は大通りにあるオフィスで数多くの顧客の為にダイレクトメールやパッケージ、販売促進の仕事等を行っている。グラフィック・デザインに加え、ボールは職業軍人としての顔も持っており、37年務めた州兵陸軍を1979年に引退、その後1990年に共和党の書き込み投票キャンペーンにおいて、彼は自分がスマイリー・フェイスの創始者である事を発表した。

社会背景

第2次世界大戦に続く「オジー・アンド・ハリエット」の時代、アメリカには合意とひとりよがりの雰囲気が漂っていたが、60年代にはそれが壊れ、アメリカ人は激しくはっきりと分裂した。それは世代の違いという面も大きいが、市民の権利とベトナム戦争についての意見の相違で分かれたものだった。黒人の教会は爆破され、自由を求める人々は打ち負かされ、大統領と重要な指導者2人が暗殺され、国中で暴動が街を襲い、大学のキャンパスは反体制の知識と活動の場になっていた。

世代を分けたのは政治的な点が全てではなかった。ベビー・ブーマーの多くが両親の世代の価値観や社会の仕組みを受け入れられなかった。彼等はそれを服装や振る舞いで示し、反体制文化を作り出して様々な方法で年配者をぎょっとさせた。彼等は表現の手段としてメッセージ・バッジを取り入れ、見た者が衝撃を受けるようなバッジを付ける事も多かった。

バッジを交換し合い付ける現象は1967年に始まり、急激に全国の反体制文化の中で大流行した。そしてすぐに社会全体に広まった。このようなバッジ狂いのアメリカにおいては、黄色いスマイリー・フェイスは広く人気を得た。対立する世代ではスマイリーは政治的な物であり、議論するまでもない物とされた。

スマイリー・フェイス・バッジの幅広い人気に商品メーカー達が着目し、他の製品の市場が注目を浴びた。ニューヨーク・デイリーニュースの記者は熱狂の様子をこのように伝えている。「そもそもこのバッジが始まりだった。当初販売されたのはこれらのピンだけだったが今は何千個にもなり、スマイルの大流行が確立した今はクッキーからトイレット・ペーパーまで何にでもマークが付けられ製品として売られている」。

商品メーカーは何百種類ものグッズにマークをべたべたと張りつけた。1971年までに、スマイリー・フェイスは国内でもっとも人気のあるマークとなり、およそ5,000万個のバッジが売られた。これはアメリカの人口の4分の1がバッジを1個購入した計算になる。しかし他の流行と同様に、市場はすぐに飽和状態となり、1972年にはスマイリー・フェイスはこの先1年半で消滅すると予言された。

ポップアートとの関係、商品の広がり

スマイリー・フェイスの商業的成功は、一部はアメリカ人がポップアートの運動を受け入れた為と考えられる。アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタイン、そしてクラウス・オールデンバーグ等により1960年代初頭にポップアートが姿を現し、消費者社会とメディアからイメージを引き出した。ポップアートの作品はコミックやアニメや広告、ポスター等既に存在しているイメージから取られた輪郭のはっきりとした形を鋭く描いた物である。例えばアンディ・ウォーホルのスクリーンにプリントされた「キャンベルのスープ缶」のシリーズを見た者は、その中に形と様式の新しい釣合いを見出す。スマイリー・フェイスの平たい外観と解釈しようのない表情は、このマークがポップアートの運動に含まれている事を示している。

スマイリー・フェイスの流行を利用して、「メーシーズ」や「バーグドルフグッドマン」等のニューヨークの有名デパートではブティックが開かれ、安価な蝋燭や枕から55ドルの14金のライターまで様々な商品を販売した。フィラデルフィアの「トラフィックストッパーズ」社は、マークで利益を上げた団体の中でももっとも規模の大きい会社である。オーナーであるバーナードとマーレーのスペイン兄弟は30種類のスマイル製品を販売し、1971年の上半期だけで100万ドルを稼いだ。彼等は自分達の商品の多くに「Have a Happy Day」という言葉を付け加えていた。

後に、その言葉とスマイリー・フェイスは切っても切れない仲となった。1970年代の半ばには、「Have a Happy Day」が会話の中で何度も繰り返され、スマイリー・フェイスは深い考えの無い楽観的なシンボルとなり、またブランド信奉を表すようになった。「Have a Happy Day」や「Have a Nice Day」は口が過ぎるモノローグとして批判の的となった。マークは車のバンパーに貼られた下品な言葉のステッカーの上に重ねられ、ゆがんだ姿をさらすようになった。スマイリー・フェイスがこのような攻撃を受けるようになると、多くの人々は自分達の70年代のシンボルをクローゼットに仕舞い込むか、箱やごみバケツに投げ入れた。

80年代における復活

スマイリー・フェイスの姿は完全に消えた訳ではない。80年代の終わりに60年代と70年代を思い起こさせるシンボルやファッションや音楽の復活と共に見事なカムバックを果たしたのだ。より広い範囲の70年代のリバイバルの中で、若者向けのクラブや、ニューヨークやロンドン、シカゴ等の大都市でのストリート・ファッション界ではピースサインや花柄、絞り染めその他の70年代のサイケデリックでアシッドな文化と一緒に、スマイリー・フェイスが流行に敏感なダウンタウンのクラブキッズの着る服を飾り始めた。アシッドやサイケデリックなドラッグに対する興味が再び「アシッド・ハウス・ムーブメント」を中心にして集まった。(ここでは70年代のアシッド・ロックとテクノのダンスミュージックが混ざり合っている。)このドラッグの文化とダンスが大きな現象として広がり、黄色に輝くスマイリー・フェイスがまた流行の波を掴もうとする大勢の商売人達の目に止まった。ニューヨークの「メーシーズ」や「ブルーミングデールズ」、ロンドンの「マークス&スペンサー」や「ケンジントン・マーケット」のような大きなデパートが1990年までにブティックを開き、スマイリー・フェイスの商品専門とした。

そしてスマイリーは現在も健在である。30代は統計上90年代で最も買い物の多い年代であるが、彼等にとってスマイリーは70年代初頭の成長期を懐かしく思い出させてくれる。「ジョー・ボクサー」社がアパレル商品の販売に成功した事、広告のシンボルとしてスマイリー・フェイスが姿を見せた事は、マークがいつまでも消費者にアピールを続けている事実を証明している。掴み所のないイメージは昔見ても今見ても様々な意味を秘めており、解明される事は無い。

スマイリー・フェイスのデザイン

マークを商標として登録しなかった事で、スマイリー・フェイスには数限りない類似品が生まれた。ウスターで作られたスマイリー・フェイスの本物の要素とは何であろうか。マークがいきいきとして見えるのはハーベイ・ボールが顔をフリーハンドで描いたからである。「私は迷いました。コンパスを使って口を描き、両目を完璧な円にすることも出来ました。しかし、フリーハンドにしました。そして人間味を持たせたのです。」ボールのスマイリー・フェイスは完全な円形の輪郭に僅かに曲がった口を持ち、上がった口の右端は左端よりも厚く長い。目は円形ではなく垂直に並んだ小さな楕円形で、右目がやや左目よりも大きい。オリジナルのスマイリーは明るく鮮やかな黄色である。類似品は溢れる程出回っている。違いを見分ける事ができるだろうか。 文化史の研究者達はスマイリーの図像学をたどる試みをしているが、似たマークが1930年代にオレンジの入った箱に付いていたラベルや、子供向けの絵本の登場人物に見られたと言う。しかしこれらの既に存在していたデザインは一般に目にされていたかもしれないが、スマイリーの大流行はハーベイ・ボールのデザインによって引き起こされた物である。

多くの人々がスマイリーを自分の創作だとしてきた。「ニューヨークシティ・ラジオ局」はスマイリー・フェイスのマークを1964年に宣伝に使用したと発表した。ワシントン州シアトルの広告代理店経営業デビッド・スターンは、1967年に銀行の販売促進の為にマークを作り出したと主張した。しかし1993年に取材記者に質問されると、彼は主張を撤回した。「トラフィックストッパーズ」社のバーナード・スペインとマーレー・スペインは、1971年にテレビ番組「What's My Line」に出演し、自分達がシンボルを創作したと宣伝した。しかし、このような主張がいくら寄せられても、ハーベイ・ボールがスマイリー・フェイスの創作者であるという事実は変わらない。